【放射能汚染の現実を超えて-小出裕章 著】を読んで思ったこと。途上国生活をしているからこそ分かる現実

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隊員ドミトリー本棚に残された「放射能汚染の現実を超えて」

歴代隊員が残していった書物を処分するということで必要な本があれば持って行ってとアナウンスされたタイミングで本棚から見つけた一冊「放射能汚染の現実を超えて」。

興味深いタイトルの本ではあるものの日本で生活していたとしたら手に取ることはなかったと思う。

日本ではどうでもいいようなTV番組などで時間を費やしてしまうためほとんど本を読んでいないからだ。

この本を手にしたのが昨年の12月。4ヶ月程手つかずであったのだがそれは他にミステリー小説やもっと気楽に読める新書が手元にあったからだ。

まだ他にも小説があるけれどそろそろ難しそうな本にも手を出してみるかと思い「放射能汚染の現実を超えて」を読みだした。

放射能汚染の現実を超えては復刊本だった

著者は京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏。著者のまえがきからこの本は始まっていたが数行読み進めるだけで驚いてしまった。なんとこの本は1992年に刊行されていたものの復刊だったのである。それと同時にいま自分が読んでいる本の出版年度を見ると20115月。やはり福島原発の事故後に刊行されていた。そしてこの本を読んだ現在が20174月。

本というもの、特に文学作品である小説などとは違い学術書(といったようなジャンル)のものは情報の新しさが重宝されるのが普通である。

復刊されてから6年、そして以前の刊行時からは既に25年もの時が経過している。

(そもそも出版社が復刊した時点で必要とされ、価値のあるものと判断されたのだが)果たしてこの本が読む価値に値するのか、とちょっとした疑問を持ちながら読みだしたものの読んで損はなかったといえる内容である。

私と放射能汚染との関わり

私自身が茨城県ひたちなか市に住んでいたこともあり原子力関連の事故とは無縁ではない。東海村JCOの臨界事故の際は範囲10km圏内ということで学校を休み自宅待機になった経験がある。また福島原発事故では隣県ということで少なからず他の都道府県よりも敏感であるべきだったのかもしれない。

しかし日本に住む多くの方よりも身近であったにもかかわらず放射能について深く考えることはなかった。

放射能汚染の現実を超えては多くの方に読んでもらいたい

本書の内容について深く触れることはないが新しい発見がいくつもあった。それはひとえに私の勉強不足というところから来ているものではあるが青年海外協力隊に来てはいるものの世間一般と同じような常識を持って日本で生きていたことを考えると他の多くの方もこの本を読んで得ることが多いのではないかと思う。

著者の小出氏は原子力の専門家であり誰よりも原子力の怖さを知っている、そして原発に反対している立場ではあるが放射能汚染を引き起こした原因を作った側がその因果として放射能汚染を受け入れるべきであり、弱者に対してそれを押し付けるのは違うのではないか、という意見には深く考えさせられる。

東京などの首都圏で生活する人々のために作られたといっても過言ではない原子力発電所。その被害は原発周辺の福島の人に限られる。これまで私は原発があるおかげで自治体に補助金なども入っていたのだから被害者となってもしょうがない部分はあるのだろうな、などという思いがあったものの、結局は原発建設地自体が弱者の立場にあるのではということに気づかされた。

何も知らずに原発推進、原発反対というよりもまずは本書を読んで何かを感じ取ってもらいたい。

途上国生活から見える日本社会と原子力発電

現在ウガンダに住んで1年ちょっと。停電、断水は日常茶飯事。というか1日中電気があることの方が珍しい生活をしている。冷蔵庫も洗濯機もないから保存の効かない食材は買えないし、洗濯も手洗いである。

こんな生活を2年したとしても日本に帰ったら絶対に冷蔵庫と洗濯機は使うだろう。やはり便利なのである。

私は原発推進派ではないが容認派といったような立場にいるのではないかと思う。もちろん再生可能エネルギーである太陽光や風力発電などでエネルギーが賄えるのであればそれは喜ばしいことであり歓迎したい。しかし現実問題として日本社会、日本に生活する人々は不安定な電力を受け入れることは出来ないであろう。

原発反対と言っている方を非難するわけではないが便利な生活を捨ててもいいという人は果たしているのだろうか。我が家は太陽光発電だから、などという反論を受けそうであるがそれはお金を持っているから選択できる選択肢であって、じゃあ太陽光発電がない場合、冷蔵庫と洗濯機、その他もろもろの電化製品の使用をやめることが出来るのですか?と聞いてみたい。

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